どんなに宗教について読み進めていてもヒンドゥー教のことは分からない。あまりに「インドそのもの」すぎて、ガンジス川とともに育たなければ真に理解する時は来ないのでしょう。

ねこぢるインド旅行を久々に読み返す。
インドのカオスをそのまま、綺麗事も偏見もなく、感じたままに映し出した素晴らしい一冊。

ヒンズー教では人間は五千回ぐらい輪廻転生を繰り返すと考えられている。五千回もやって来る死のひとつが来たからといってむやみに悲しむ必要もなく…。
この考え方が希望でもあり、一方で至極残酷でもあり、見つめ続けるとゾクゾクと「死」を感じてしまう。悪寒がするほど震えてしまうので、それだけ僕の脳みそにとって強烈な刺激なのでしょう。
インド人には当然の考え方。
彼らは抗えないカースト制度のもとで生まれる。金持ちは金持ちの、貧乏人は貧乏人のカーストとして一生を過ごす。しかし、彼らは信じている。どんな惨いカーストを過ごすことになったとして、それを全うしたら来世は良いカーストで生まれ変わる。
所詮、現世は五千回の一、前世で悪いことをしてしまったのだから今回の生涯は延々とガンジャを吸いながら川を眺めて死ぬことになっても仕方がない。そのような運命を終えると、来世が始まるだけ。
無宗教の日本人では決して受け入れられない生き方。思考。が、インドではそのような考え方を生まれた時から仕込まれる。
家族も友人もすべてがそうなのだから違和感すら覚えない。川に向かえばみんな水浴びして一日を過ごす。そのへんで人が死んだら川辺で火葬し、捨てられた骨を野良犬が咥えて逃げる。それでも聖地で死ねて良かった良かった。来世は良いカーストになるでしょう。
何もかもがちがう。
キリスト教とも、イスラム教とも、仏教ともちがう。圧倒的なスケール。ヒンドゥー教。巨大なゾウの頭をした仏像を何よりありがたがる。
僕は、宗教を学ぶうちにうっすらと魂を信じるようになった。結局、今世とは己の魂を磨く舞台であるのだなと納得する。が、その魂が死後にどこへ向かうかなんてわからない。考えもつかない。死後の裁き、天国地獄、輪廻転生。そこまで理解できるほどに信心は無い。
そもそも、神様は上位存在の人工物のようにすら思える。複雑なんだ。
なんにせよ、このようなことをうだうだと考え、本物の「死」をできる限り忘れることが人生に思える。そのうえで、いつの間にか死後の在り方を確信し、ゆっくりと死を受け入れる。それが生物ではないかと理解している。
「死後に世界なんてない。土に還る感覚もない」。それも確信できたなら、それは立派な「無宗教」の信者だ。僕は死後の世界まで否定できない。
しかし、魂の巨大な流れは絶えず、実際に僕もまた5000分の1を過ごしているだけだとしたら? その考えは恐ろしいほどゾクっとする。いずれ、僕はそんな理屈を直観してしまえそうで。
その時は、その時でいいか。来世で逢いましょう。来世の僕は自閉症じゃないかもしれない。死後や宗教のことなんて考えず、のんびりと日々ガンジス川のそばでガンジャを吸って眠るだけの存在かもしれない。
そんな僕を見かけたら、あなたはそっとルピーを置いていきなさい。僕が本を買えます。それだけの生涯をすごすよ。


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