ゴダール『気狂いピエロ』

ゴダール『気狂いピエロ』

書いた人 : nyalra nyalra

 人生が物語と違うだなんて悲しいわ。

 ゴダール『気狂いピエロ』の話をしましょう。

 僕は観た映画から感じたままを書くのです。間違っても「批評」じゃない。僕はそんな高尚な文章など書いたことも、書きたいと思ったことすらない。僕はつねにスマホをぽちぽちと、滑稽に、脳内に浮かぶ文字をそのまま出力し、ちょっぴり整えているだけだ。詩に近い。けれども詩と呼べるほど純粋ではない。だから作詞ができたのかもしれないし、本作では言葉こそ純粋性そのものと言った。本作の主人公、狂ったピエロは欠かさず日記を書く。僕もこうして毎晩日記を書く。自分の本質がどれだけ見えなく、寂しくとも、日記に書いた言葉は純粋なものだから。

 この映画は、いやゴダールの作品はだいたいがそうなのだが、色を観るんです。もしゴダール作品について話すスノッブな映画オタクが「色」の話をしなければ即刻耳を塞いでいい。僕の日記なんて病人の妄執なのだけれども。

 本作はモンドリアンとゴッホだ。だから、画面中に赤・青・黄が散りばめられ、寂しくも綺麗な南仏の風景しか無いでしょう。絵画の世界とゴダールが求めたファム・ファタールへの憧れのミックス。そのバランスが最も「理解の範疇にある」から、この作品はゴダールの中で最も有名で傑作扱いなのです。『ウイークエンド』までいくと多くの理解を拒む。ゴダールの美学と映画としての体裁がギリギリのせめぎ合いを保っている。

 客観的に見た美のピークであり、以降は狂人の域。だから素晴らしいんだ。つねにラインは越えずに居られる常人では達せない。デヴィッド・リンチでの『ブルーベルベット』だ。ギリギリの奇跡なんですね。

 ゴダールの色彩感覚、色に込めた意味、そしてモンドリアンについて考えながら観ていけば、終盤には意味なんて後からついてくる。赤のシャツを来た限界状態の男が、黄色い危険なダイナマイトを手に入れてしまったら、自ずと顔は青く道化のように塗りたくるでしょう。実は、ゴダールは別作品で明確にモンドリアンの話をするシーンがあるのですが、それはまだみなさんには教えない。僕が偶然気づけた答えのひとつをそう簡単に示してやるほどお人好しじゃない。

 あまりに自由奔放に生きる女に「生」を見てしまい、自身がノートに紡ぐ言葉の中で「永遠」を夢見てしまった。

 僕らは夢で作られ、夢は僕からできている。


 本作はどこからがセリフで、どこからがポエムなのか判別つかない。それは、その二つが同じ意味でしかないからだ。答えはすべてそのまま、それこそ冒頭から登場人物たちが詩の形で語りかけ続けている。僕らは彼と彼女のポエミーなドラマを色づける、特徴的な建物や自然を眺めて追えばいい。こんなに単純なことはない。

 夢の中で曖昧に過ごす人間に答えなど出せぬように、この映画にも明確な答えは存在しない。当時は画期的すぎて受け入れられなかった、シーンとシーンをぶつ切りにして連続させるコラージュの演出は、まさしく「夢」そのもの。次々と映し出される夢の断片、その中に埋め込まれた思想と主張と悲しみと純粋性を取り出し、観客は勝手にそれらを繋ぎ合わせる。押井守が「映画の本質」とまで語る意味もわかる。

 ならば、あとは車のフロントガラスに反射する光を眺めていましょう。とても綺麗な光です。人生は物語でも映画でもない。けれども、この映像は間違いなく映画の中だ。このテーマはゴダールは別作品で何度も繰り返す。

 そして、本作の最後はランボーの詩で締め括られる。美しい詩と海で終わるために踊った、気狂いピエロの物語(ロマン)です。


また見つかった! 何が?

永遠が

太陽と共に去った 海が

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