※本記事は2025年5月24日にnoteに投稿した旅行記を再投稿したものです。イタリア旅行の途中から。
ローマは自分にはうるさすぎて苦しくなったので、バチカン市国を目指します。
Uberで呼んだタクシーの運転手が漢字を読めなくて、「俺にはキミの名前を呼ぶことはできないけど、バチカンまでは送ってやるぜHAHAHAHA!」と大爆笑していた。
ものすごい陽気で嬉しいね。バチカン市国までの30分程度、いろんな施設の解説もしてくれた。途中、息を呑むほど大きな神殿のような建物を見つけて「あれは何?」と訊いたら、「justice!」と叫び出し、もはや解説するまでもないほど正義なのかなとびっくりしていたところ、後から調べたら「ジャスティス」という建物名だった。
そんなこんなで愉快な車内を過ごしているうちに到着。
運んでくれてありがとう。チャオ!


平日のお昼でも行列。一応、簡単な手荷物検査がある。
一瞬怯んでしまうが、向こうも行列に慣れているので手際がよく、サクサク列が進むのであまり気にしないでもいい。そもそも、バチカン周囲は詐欺もスリもぐっと減少し、人混みもまた「これから同じ神を拝む仲間だ」と思うと嫌じゃない。
仮に、ここでスリの被害に遭ったとしても、雰囲気に圧されて「いいえ。その財布は僕が彼にプレゼントしたものですよ」と言ってしまいそうだ。まあバチカン市国ギリギリの場所で怪しい土産屋を運営している人はたくさん居るけれど、それくらいローマ市内の煩雑さに比べたら可愛いものだ。


素晴らしい!
ここまで視界が真っ白なことは無い。行きの飛行機で見た雪とも違う、「人工的な厳かな白」が一面に広がる。すごいな、これは。いや、すごい。これはイタリアに来て良かったと改めて感動するに充分の建築美。
テクニカルでアーティスティックなデザインの建築美でなく、愚直なまでに神への信仰心を形にした、ストレートな「広大さ」の迫力に打ちひしがれる。敬虔な巡礼者がここに辿り着いただけで救われてしまうでしょう。優しいことです。

バチカン市国にも電子広告はあるのか。しかもサバトの案内。これを見て、「へぇ〜今月末にサバトがあるんだ。わたしも参加しようかな♪」となる現地民もいる訳で、日本ではなかなか想像できない世界観。


さて、大きな門をくぐり、天国に最も近いであろう場所を歩こう。

まずは屋上に上がろうとするも、エレベーター付きのチケットは高く、せっかく天国への階段があるのだから歩こうと徒歩を選択。徒歩で登る人はほとんど居なかったので快適。
途中、あまりの長さに息を切らして休憩する老夫婦がちらほらと。10分くらい登るかな? 天国を前にだんだんと人が脱落していく様子はハンター試験のようだった。体感ではチェコでの城の方が登ったかな。

廊下から眺めた景色。なんと豪華絢爛な。
女の子が急に泣き出したので、ここまで天を目指した場所の最高峰でも結局は天国そのものでは無いことに泣いているのか、はたまた天国なんて本当にあるのか信じきれずに泣いているのかと眺めていたら、ただ高所が怖くて早く帰りたいだけだった。
僕も降りよう。


この荘厳な空間は、多くの人間たちの心を救ったことでしょう。
僕は、日本人が無宗教ゆえに神の存在証明をもとに各宗教を揶揄うことが好きじゃない。宗教とは、人間の信仰心の力強さと美意識に本質があると思っている。
神を信じ、迷える信徒のために何十年もの月日を費やし、まるでエデンと見間違う建物を建造できる「実存の美しさ」に、神の実在性を問うても意味がない。
バチカン市国の存在自体が人類の奇跡であり、たとえ神様なんか居なくとも、死後の裁きなんて訪れなくとも、人間たちの逞しさと美は間違いなくここに在るのだから。
この建物が存在するのは、神じゃなくて人間の力だよ。


まあ、お土産コーナーの壁に並べられていたり、陰になった場所に放置されている、余った磔のイエスに思うところはあれども……。宗教と商売の関係は切っても切り離せないから面白いね。


この子はバチカンのマスコットキャラクター、希望の巡礼者ルーチェちゃん。果たして彼女は、これからのバチカン市国のイメージを支えていけるのだろうか。
視点を大聖堂へ戻そう。
僕がここで一番見たかったのはピエタだ。美術館でも見てきたけれども、やはりバチカンの大聖堂にあるピエタをどうしても一目拝みたい!

通りすがりの聖職者に、「ピエタはどこにありますか?」と質問する。わざわざ日本から来たうえでロザリオのネックレスを下げたピエタの訪問者を、ものすごい熱意ある敬虔な信徒と思ったのか、とても丁寧に道筋を教えてくれたうえで祈りまでいただいた。
オランダでリートフェルトの建築を回っていた時も似たような歓迎を受けましたが、自分が思っているより僕はたしかに真摯な数奇者かも知れない。
現地の方の協力もあり、僕はついに己が旅の極地へ辿り着く。


彫刻の芸術性に美を捧げてきたイタリアで、ミケランジェロのピエタを見た。
その静謐を眺めているうちに涙が溢れる。
彫刻に対して涙を流すなんて初めてのことだった。なぜ、僕はこんなにも『ピエタ』に惹かれる? 罪を背負って磔となったキリストか?
違う。聖母だ。ピエタは聖母子像なのだ。
僕は、キリストを抱えるマリアの母性に泣いている。女手一つで僕を育てた実母を含め、この世界のすべての「母親の優しさ」を重ねて泣いているのだと気づいた。
これ以上、佇んでいると囚われる。進もう。


ありがとう、ローマ教皇。

画面手前側のシートは発明だ。ここで膝立ちをし、前の手すりに肘を乗せると自然と「祈りのポーズ」となる。祈りのための家具なのだ。ここで多くの人たちが膝をついて祈りを捧げる。僕だって、マリアに。母に。
帰ろう。

外はすごいことになっていた。


バチカン市国でも、お土産コーナーはこんな感じなんだ。
あと、ピエタのスタチューも全然売ってた。なんだかなあと思いつつ、これもまた人間の逞しさだなと聖堂を後にするのでした。
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