最近の悩みの中に、「選択された善」について考えてしまうことがある。「選択された善」は僕が解釈して簡略化した表現であり、実際に存在する概念とかではない。
選択された善のわかりやすい例として、『時計仕掛けのオレンジ』があるでしょう。
ざっくり該当部分だけ抜き出すと、とんでもない不良の主人公は『ルドヴィコ療法』なる残酷な実験により、悪いことをすると吐き気が止まらなくなる体質へ改造されます。身体が拒否するので彼は強制的に「善人」として生きることになり、政府側は凶悪犯が簡単に改心して最高! というお話ですが……物語の途中で牧師が「善」の話をします。
牧師は「善とは選択するものなのだ。人間が選択できなくなった時、人間でなくなる」と主人公へ語る。この教えが妙に腑に落ちて、僕は「選択された善」と勝手に命名して頭に入れている。実験によって「善人にされた」、というより善行を強いられている主人公は、自身が選択して善を実行しているわけではない。そうせざるを得ないだけだ。考えて行ったのでない善に意味はなく、延いてはそんなもの人間ですらない、という道徳観を敬虔な牧師は抱いている。躾によって「叱れるから」粗相をしなくなった動物は、本能的に人間を恐れただけで善ではないですね。ならば、ルドヴィコ療法を受けた主人公も動物だ。
僕は、この牧師の話がすごく好きなのです。
僕のように義務教育が死ぬほど嫌いな人間(他の例はマリリン・マンソンなど)は、学校がこの「選択された善」で成立している場所だからではないか。そりゃ無軌道な小中学生へ秩序を与えるには、理由よりさきにルールを明示し、ある程度の強制と矯正を行わねばならない。なので、ルールを破った者は学級会で裁かれる。「ルールが正しいかどうか」は子供には早く、とりあえずの行儀の良さが評価される窮屈さが苦手なのですね。教育への信仰に首を掴まれて向き合わされている気分になる。
ただ、これは仕組み上仕方がない。荒唐無稽な子供へ机に向かわせるには規則と罰を定め、それに沿った成績での優劣をくだすのが早い。人が多いと「秩序」が何より優先される。それが肌に合わない者はとことん合わない。本気で嫌なら義務教育だけに囚われなくてもいい時代であることは助かります。そっちも修羅の道だけれど。
余談ですが、インターネットの空気感は大多数の人間による秩序で成り立っているので、その時その時でどんどん「善」が変わる。叩かれないよう、またはムカつくやつを叩きやすいよう倫理観が変動するので、みんなとりあえず批判を避けて「善を選択する」。
つまり、選択する善の連続ですが、昨今はちゃんとそんなことに意味はないと気づいたのか、はたまた息苦しさの方が不快になったのか、ネットの同調圧力に負けずに活動する人間も増えてきた気がします。素晴らしいことだ。スマホ世代の若者が一気に流入して既存の秩序を書き換えたのかもしれない。僕は混沌としている方が好きだし、混沌の中で新たなヒーローが生まれることで価値観や道徳が塗り替わる瞬間を見たい。時代のうねり、人の夢。
さて、学校にしろSNSにしろ、人口が多いとルールで縛るしかないのはもう仕方がない。それは大前提として頭に入れている。もっと規模が大きくなれば宗教もまた「秩序」の塊です。その中で教えを踏まえて真に善を考え始めることで人間となる。右も左もわからない子供たちにとって、初めに参考にすべき指針は必要でしょう。ただ、いつまでもそれだけに沿って生きていたら「選択した」のでなく、「選択された善」の世界を生きることとなる。
社会生活でも近いことはたくさんあります。というか、社会こそ秩序だらけだ。僕はそれが窮屈で堪らないので悩む。ゲームをリリースして以降、人間関係が増えて、社会へ参加せざるを得なくなった。なったものはしょうがないが、善を選択されることは最も避けたいので、こうして考えたことは日記に書くし、せめて社交辞令と愛想笑いは使わないようにしている。その場の空気を守るため社交辞令を口にするたびに魂が穢れていくので、もう止めた。人が多いとさすがに空気を悪くするから飲み会なども行かない。少人数の打ち合わせであれば、製作しているものの強さが最優先なため、本心での感想がありがたがられる。微妙だと思ったら「悪いけどここは作り直そう!」と言える/言ってもらえる環境は気楽です。
なんにせよ、自分の面倒くささを何より自身が理解しているため、とにかく自由でいたい。その上で「自由な状態の中、自身で考えた最善を選択できる」人生が望ましい。その場合の善は一般的な悪であっても知ったことではない。選択することが大切なのだから。
まさか、僕も『時計仕掛けのオレンジ』に出てきた牧師の教え一つでこんなに悩み続けるとは思わなかった。ただ、僕はこうして善悪や倫理についてぐるぐるぐるぐる思い詰めることが好きなんです。好きだからやっているので、そんなウジウジした根暗な趣味をバカらしく見える人は、持ち前の明るさで思う存分突き進んで欲しい。その快活さもまた答えの一つなので僕は好きだ。結局、僕は好きなことを好きにやって(考えて)いるので、単純にそういう人なんだな。その点はアレックスと同じだ。いつか僕もルドヴィコ療法のお世話になるかもしれません。
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