新作ノベルゲーム『妹、他者、パラノイア』をリリースしました。

今作とNEEDYアニメを通して、自分の中での「禊」を終えた心地です。あらゆる方面から自分が先に進むための、禊を。
NEEDYリリース以後の自分は完全に人間不信に陥っていて、誰がどういう目的で自分に話しかけてくるのか、このまま先へ進むとどうなるのか、同じことを繰り返して意味があるのか、このタイミングの自分にしか生み出せないものがあるのではないか。
こうした葛藤をそのまま、不格好に不器用に表現することに異常なほど拘った。着飾り、格好つけることをやめて、全面的に「剥き出し」にすることとした。剥き出しは多くの人から反感を買う。今作もすでに「人を選ぶ」と言われ続けている。まったく合わない方も相当多いでしょう。それもそのはず、人は剥き身の刀に対して身構える。よほどの波長が合わないかぎり、それは評価にすら値しない。快楽原則に敢えて逆らい、エンタメの基本からも明後日に進むほど根っからの逆張り野郎でした。
今作は特にそうだ。自身が一から十まで責任を持ち、自身の会社の処女作だ。友人のHAYAOくんと会社を立ち上げ、過去ともに作品をつくった人たちから再び協力してもらい、どうにか自分たちで一本まずは一年かけて製作した習作です。つまり、自分のエッセンスが主成分として忖度無く凝縮されている。それ故、多くの人たちは振り落とされる。カジュアルやポップに身を包まないモノは大衆の心を掴まない。電波である以上、一般的な評価を受けることすら許せない。
積み上げたものを一度崩さねば気が狂いそうだった。
誰にも理解されることはない。この立場になったものは確実に僕しかいないし、だからこそ今残さねば、サブカルチャーの歴史にそっと置いていかねばならない使命があった。
僕は、本来もっとアンダーグラウンドで生きていくべき人間で、本質的な面で「電波的」な、ひん曲がりサブカル野郎としか言いようがない。まかり間違っても100万人のためにラブソングを歌う役どころじゃない。
真に作品を届けたい相手にだけ、過去に自室の奥底でわけのわからんマイナーでレア物な作品たちを漁ってニヤニヤとしてた引きこもりだった自分へ、ただそいつにだけ毒電波を発信したい。
僕は、希死念慮に振り回されているだけの、根暗で陰湿で卑屈で傲慢な廃棄物だ。社会にとってつねに「敵」そのものである。そんな人間にしか書けないこともあるでしょう。が、それは世間が望んだものではない。
みるみる、ユーザーを厳選する作品ばかりを作ることへ躍起となっていった。知人のNEEDYアニメへの感想は的確で「アレはフォリ・ア・ドゥですよね」と言及され、心の底から嬉しかった。どんなに周囲から文句を言われようとも決着をつけねばならないことをするべき作品。まさしくイメージはジョーカー:フォリ・ア・ドゥだった。起こしてしまった現象に答えを示すための、自身にとって、一部の狂信者にとって、現実と向き合うために必要な過程。
今作はさらに内向きの自己満足です。
「遺書のようなもの」が自分の結論だ。リリースにあたり、自身でプレイして、この表現が適しているなと感じた。以降に僕が死んだところで、生きて何を考えていたか、なにに苦悩していたのかの一端は伝わるんじゃないか。万が一、自身が命を断っても悔いがないようにするための書き置きなんじゃないかと。
そんなモノに多くの人たちや読者を巻き込んで申し訳ないね。
が、これから僕はまだ作品をつくっていくけれど、2作を通して、「NEEDYリリース後の自分にしか書けなかった感情」は、余すことなく出せた。長い目で見て大切なことだ。NEEDYアニメと今作の2作を通して、自傷行為のように剥き出しの自分を晒し者にすることで、仲間もファンも厳選していき、「それでも僕の発する電波を求める者」がどこにいるのか、それがどう受信されたのかを見極めていった。
カジュアルさを抜いた自分が、どれだけウソをつかずに愛されるかの壮大な試し行為であり、自傷行為だったのでしょう。でもね、気に入っているんだ。自身が生んだ子どもで、自分がつけた傷痕をなぞって気持ちよくなれるから。脳内麻薬は傷の深さに応じて分泌されていく。
ユーザー、視聴者、読者。
どのような言い回しだって構わないが、とにかく受け手のことを二の次にした独りよがりな作風は、殻の中に籠もった愛されたがりの引きこもりそのもので、毀誉褒貶、どれもダイレクトに心を抉る。ノーガードだからね。
皆にも申し訳ないことをしてきた。でも、代わりに唯一無二のものたちが生まれたとも思っている。僕はこういう身勝手な人間で、そしてしょうもない。そして気取り屋で宗教家でもある。単に実力不足な面も大いにあって。
ただ、これで自分も過去を乗り越える決断ができた。
遺書代わりの完成によって今までの自分を殺すことができた。
二作を通して、「美術と芸術へ身を捧げることができる」自信もついた。そのためなら、死ねる。
次回作からは、カジュアルさとポップさを取り戻すことでしょう。それもまた自分だから。人は、剥き身だけがすべてではない。ファッションなる鎧を纏って武装するのも「人間性」です。次回からの自分は、ちょっぴりスッキリとして一皮剥けているかもしれません。
それを差し引いても、覆い隠せないくらい生来のひん曲がりかつ独りよがりであるかもしれません。
なんにせよ、まだまだ作っていくしかないのでしょう。書いていくしかないのでしょう。これだけは確実に直感しています。
僕は、そういう運命に生まれたモノだから。
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